猪狩忠昭さんの労働実態について、呼びかけ人のひとりである東京労働安全衛生センターの飯田事務局長が作成した文章をアップします。
かなり長文になりますが、猪狩さんの労働実態が詳細に分かりますので、ぜひお読みください。
(一部修正しています。)
1.被災者について
・被災者氏名 猪狩忠昭 いがりただあき
・生年月日 1960年(昭和35) 享年57歳
・住所 福島県いわき市内
・死亡年月日 2017年(平成29)10月26日
・死因 致死性不整脈
・遺族 ●●●●(妻)
2.会社と勤務について
(1)脳・心臓疾患を発症した当時の所属事業場
・所属事業場 いわきオール株式会社(以下、会社という)
・事業 中古車・建機・特殊車両等の買取り・輸出・販売・整備・レンタル業
・現在地 福島県いわき市
・就労事業場 東京電力福島第一原子力発電所(以下、1Fという)車両整備工場
・業務内容 1F及び会社での車両の点検、整備、納車
(2)始業時刻及び就業時刻、休日について
・1F (月)~(金)
・始業時刻 午前4時30分
・終業時刻 午後6時
・休憩時間 1時間(1F内)
・会社 (土)
・始業時刻 午前8時
・終業時刻 午後6時
・休憩時間 50分
・休日 日曜、祝日
3.業務内容について
(1)1Fでの業務における作業内容
①1Fでの作業内容
1Fの構内専用車両(普通車・中型車・大型車)、特殊車両(散水車、消防車等)のエンジンのオーバーホール、車両の足回り等の点検・整備業務を行っていた。未点検で廃車寸前の困難な車両の点検・整備を担当した。
②1F内での作業環境
1F構内の作業場は1F内の構内専用車両整備工場。同工場はGゾーン(一般服エリア)にあるが、未点検の車両の整備を行うため、作業員はYゾーン(タイベックエリア)の防護装備(タイベック、ヘルメット、全面マスク、ゴム手袋、安全靴等)を装着して作業していた。作業現場にはトイレがなく、タイベックの防護服を脱ぐこともできないため、尿意等を催しても昼食休憩や作業終了後に免震重要棟に戻るまで我慢するしかなかった。そのため作業現場に出る前には水分補給を控えざるを得なかった。
③防護服
下着の上に指定のポリエステル系の上下の着衣を着用してからタイベックを着る。夏場は暑いので肌着は着用せず、指定の上下を直接着用する。
④熱中症対策と水分補給
夏はクールベストを着用する。ベストのポケットに保冷剤を入れるが30分ももたない。免振重要棟内で500ミリリットルのペットボトルの水が支給されるが、作業現場には持っていけず、水分補給はできない。
車両の点検整備作業では車両の下に潜り込み、エンジンルームに体を入れて作業することも多い。全面マスクをしているため顔面から汗がマスク内に溜まる。また呼吸が苦しくなる。防護服内も汗だくになった。
⑤作業に使用する器具、取扱う品物
1Fの整備工場は元請のU社が整備機材、工具、部品、材料等を用意していた。会社の工場には点検・整備に必要な工具類が揃っていないため、自宅から自分の工具を持ちこんで作業をしていた。
⑥業務量の変化
東電の資料「構内専用車両運用状況及び車両整備について」(2017年5月29日)によれば、構内の未点検整備車両を2018年度9月末までに全台数点検整備を完了させることになっている。そのため2017年4月から整備体制の強化を図り、工場の稼働日数を週5日にし、整備士を3名から4名に増員して対応することになった。
こうした東電の未点検整備車両の早期削減方針にもとづき業務量が増えたため、被災者が同僚の同僚とともに(月)~(金)週5日間、1Fに派遣されるようになり、作業を急がされるようになった。
⑦休憩時間、休憩時間の過ごし方
1Fの入退域管理施設で入場チェックを済ませると構内の循環バスに乗って免震重要棟に移動し、午前7時に免震重要棟で作業員が集合する。KY(危険予知)、防護服に着替え、その合間に簡単な朝食(おにぎりかパン)をとり、7時50分に車両に乗車して整備工場に移動する。
また午前11時頃に午前中の作業が終了となり、車両整備工場から免震重要棟に戻る。防護服を着替え、放射性物質のスクリーニングを受け、11時30分頃から免震重要棟内の2階で昼食の弁当を食べ休憩をとる。午後12時30分頃には再び防護服に着替え、マスク、手袋を装着し、免震重要棟を出発。午後1時前に工場に着き午後の作業を開始する。防護服に着替え、放射性物質のスクリーニング、全面マスクや手袋を装着するため、実際の昼食休憩は1時間もとれない。
⑧同種労働者の有無、人数
1F車両整備工場には、いわきオールの被災者と同僚、A社の2名、B社の2名が整備作業を行っていた。前述したが、廃車寸前のような車両の点検整備作業は難しく、経験豊富で技能をもつ被災者が主に担当することが多かった。
⑨放射線管理
放射線管理手帳に記録された被災者の被ばく線量は次のとおりである。IFで毎日作業終了後、APD(個人線量計)の被ばく線量の記録レシートを受け取り、会社に戻ってから元請のU社のシートに貼り付ける。月末、ガラスバッチを交換するときに一緒にシートをU社に提出していた。
・平成23年 0.01mSv
・平成24年 2.77mSv
・平成25年 1.27mSv
・平成26年 1.52mSv
・平成27年 1.36mSv
・平成28年 1.80mSv
・平成29年 1.60mSv
※累積被ばく線量 10.33mSv
(2)会社での業務における作業内容
1Fでの業務終了後、会社に戻り、午後6時過ぎまで車両整備の業務に従事した。1Fで整備を依頼された車両を運転して会社に持ち帰った。翌日、被災者が運転して1Fに納車をした。週の半分は納車していた。
(3)会社と1Fとの往復運転
2017年(平成29)の夏までは会社の軽自動車のバンに乗車して会社と1Fを往復していた。行き帰りを同僚と交代して運転した。同車はエアコンの効きが悪く、夏は車内が相当暑くなった。会社と1Fの往復は国道6号線を利用した。社長からは高速道路は使うなと言われていた。早朝会社から1Fに向かう国道6号線はかなり渋滞し、2時間近くかかる場合もあった。国道6号線では交通事故が頻発しており、1Fから整備車両を運転して会社に運び、翌日納車するために運転しなければならない時には、事故を起こさぬよう相当な緊張を強いられた。朝1Fに向かう途中、沿道のコンビニに立ち寄って簡単な朝食の食べ物と昼食の弁当を買っていた。
4.出勤時刻及び帰宅時刻
(1)出勤時刻等
・起床時刻 午前3時15分(目覚まし時計をセット)
・出宅時刻 午前4時
・出社時刻 午前4時30分
・退社時刻 午後5時~午後6時
・帰宅時刻 午後7時過ぎ
・就寝時刻 午後8時~9時
(2)通勤方法等
・通勤方法 自家用車
・通勤時間 片道約20分
5.健康状態
(1)既往歴・通院歴
被災者は2015年(平成27)に健康診断で高血圧を指摘されるまで、健康に問題はなく、極めて良好な状態であった。2016年(平成28)3月、健康診断で心電図に異常があり、同年11月大動脈弁温存基部置換術を受けた。術後の経過はよく12月に退院し、在宅療養となった。2017年年1月に職場復帰。しばらくは社内での勤務を希望したが、社長から「嫌なら辞めてもいい。その年齢で他に仕事はない」と言われ、いきなり1Fでの業務に復帰した。
(2)発症前日から当日にかけての身体の状態
2017年(平成29)10月26日、被災者が作業現場で倒れ「致死性不整脈」で死亡する3日前、階段を昇るときなどは息切れでつらそうだった。駐車場から入退域管理施設に移動するときも、同僚氏に頼んで車に乗せてもらったが、それ以外で特に変わったところはなかった。
6.業務が発症原因である理由について
(1)発症前1か月100時間超、過労死を招く長時間労働
被災者は(月)~(金)の5日間、午前4時30分に出社し、1Fで車両の点検整備の業務を終え、再び会社に戻ってから午後6時から午後7時まで同様の業務に従事した。さらに土曜日も出社し、午前8時から午後6時まで車両整備の業務を行った。
① 始業直後の状況
被災者は(月)~(金)の5日間、自宅から20分の通勤を経て、午前4時30分にいわき市小名浜住吉の会社に出社し,タイムカードを打刻した。同僚もほぼ同時刻に出社した。会社は、二人に対して各々の自宅から1Fに直行することはさせず、必ず午前4時30分に出社させてから1Fに移動させる方針をとり、二人はこの指示に従っていた。被災者は、タイムカード打刻後、会社内で血圧と体温を測定し定められた用紙に結果を記録した。さらに被災者、1Fに入構するために必ず必要な3点セットといわれるID、WIDとフィルムバッジを会社の所定の場所から取り出し、所持した(帰社後には必ず戻していた)。
午前4時45分頃、社用車や修理のために1Fから持ち帰った車両を会社の敷地から門の外に出し、門に施錠して移動の準備を完了した。
② 会社から1Fへの移動及び納車、U社・広野事務所への納品
被災者は、2017年(平成29)の夏までは、会社の軽自動車のバンに乗車して会社と1Fを往復していた。行き帰りを同僚と交代して運転した。会社が指定した同車はエアコンの効きが悪く、夏は車内が相当暑くなった。社長から高速道路は使うなと言われており、会社と1Fの往復において、指定された経路の国道6号線を必ず走行した。
会社はU社から車両関連の部品の発注を受け、販売していた。1Fに移動する途中にあるU社・広野事務所に午前5時30分までに立ち寄り、部品を納品していた。
午前7時に免震重要棟内に集合して行うミーティングに間に合うためには、遅くとも午前6時30分頃までには1Fに到着しなければならなかった。しかしながら、早朝であっても、会社から1Fに向かう国道6号線はかなり渋滞し、2時間近くかかる場合もあった。国道6号線では交通事故が頻発しており、1Fから整備車両を運転して会社に運び、翌日納車するために運転しなければならない時には、事故を起こさぬよう相当な緊張を強いられた。朝1Fに向かう途中、沿道のコンビニに立ち寄って簡単な朝食の食べ物と昼食の弁当を買っていた。
以上のとおり、移動の方法と手段等は会社によって管理されており、被災者が自由にできる余地はなかった。
③ 1F到着から作業開始まで
被災者らは、到着してから1Fの入退域管理施設で入場チェックを済ませると免震重要棟に移動し、午前7時に免震重要棟で作業員が集合する。その後にKY(危険予知)、防護服への着替え、簡単な朝食を経て、午前7時50分に車両に乗車して整備工場に移動する。そして午前8時に作業開始となる。
④ 休憩時間
午後11時30分に午前中の作業を終え、工場から免震重要棟に戻る。放射性物質のスクリーニングを受け、防護服を着替え、11時45分頃から免震重要棟内で昼食の弁当を食べ休憩をとる。午後12時30分頃には再び防護服に着替え、全面マスク、手袋を装着し、免震重要棟を出発。午後1時前に工場に着き、午後の作業を開始する。自由に利用できる休憩時間は1時間あるかないかに過ぎない。
7月~9月は、1Fの作業は午前中で終了するため、午後12時までに入退域管理施設を出たあと隣接する大型休憩施設内の食堂で1時間弱の昼食休憩とった。
⑤ 1Fから会社への移動と、会社での業務の状況
被災者らは、昨年1月から6月及び10月において、午後3時に1Fでの作業を終え、社用車ないし会社で修理するために持ち帰る車両で午後5時頃に帰社した。復路も高速道路を使うことは許されず、一般道の国道を通って帰社した。そして帰社後もおおむね午後6時頃までレンタカーを貸し出す準備等の仕事をした。
7月から9月まで、被災者らは午前の作業だけを行い、休憩後に社用車ないし会社で修理するために持ち帰る車両で午後3時頃に帰社した。その後もおおむね午後6時頃までレンタカーを貸し出す準備等の仕事をした。
⑥ 退勤時の状況
タイムカードは本来退勤時に打刻すべきであるが、社長が従業員にたいして午後6時までに打刻するよう求めていたことから、被災者も含め従業員は指示に従わざるをえなかった。
⑦ 土曜日の労働
被災者は土曜日においても出勤を命じられ、午前8時にタイムカードを打刻し、午後12時から12時50分まで休憩をとり、午後6時まで自動車整備業務を行い、タイムカードを打刻して退社していた。
⑧ 前記①~⑦の事実をふまえた被災者の発症前1か月~6か月の時間外労働時間は次のとおりである。
・発症前1か月 122時間04分
・発症前2か月 112時間37分
・発症前3か月 80時間56分
・発症前4か月 123時間50分
・発症前5か月 130時間38分
・発症前6か月 87時間03分
被災者は発症前1か月間に122時間超、発症前6か月間は平均110時間超の時間外労働を行っており、長時間労働による過重負荷は明らかである。
(2)IFでの苛酷な作業環境
2011年(平成23)3月11日、東日本大震災による地震と津波に襲われた東電福島第一原発は、全電源喪失し原子炉の冷却不能状態に陥った。1号機~3号機の原子炉核燃料はメルトダウンを起こし、1号機、3号機、4号機は水素爆発で原子炉建屋を飛ばした。大量の放射性物質が大気や海中に放出された。史上類例のない原発事故となった福島第一原発は、事故収束とは程遠い状況ある。
1Fでの作業環境は極めて特殊な環境である。事故後7年が経過したとはいえ、1F構内は放射線管理区域であり、作業者は放射線被ばくを避けることはできない。そのため1Fでの作業は作業者の被ばくリスクを軽減するための防護対策が求められる。
被災者は1Fの車両整備工場で構内専用者の点検整備の業務に従事した。同作業場はGゾーンにあるものの、未点検の車両を扱うため高濃度の放射性物質に汚染されている可能性があるため、Yゾーンの放射線防護装備を装着しなければならなかった。
タイベックに全面マスク、ヘルメット、ゴム手袋を装着し、車体の下にもぐったりエンジンルームに体を入れたりしながら行う車両の点検・整備の作業負担は極めて高くなり、熱中症のリスクも高めるものであった。特に夏場の全面マスクは呼吸を圧迫し、心筋への負荷も高めた。作業現場では水分補給ができず、トイレも我慢が強いられた。このような放射線下の苛酷な作業環境が被災者の心疾患を発症させる要因となった。
(3)2018年(平成30)9月までに全台数点検が求められた。
前述したように、2017年(平成29)4月、東電は1F構内の未点検車両整備の早期削減のため、2018年(平成30)年9月まで全台数を完了させる方針を打ち出した。工場の稼働日数を4日から5日に増やし、整備士も3名から4名に増強した。しかし業務量に比べ作業員の数が少ないため、被災者の作業負担が増えた。1F構内での点検整備では終わらず、週の半分は会社に車両を持ち帰って整備し、翌日に1Fに納車する業務も続けた。発症前6か月の業務量はそれ以前に比べて増加していた。
(4)国道6号線の往復運転の緊張とストレス
会社と1Fとの往復は国道6号線を利用した。同僚と交互に運転したが、納車すべき車両は被災者が往復運転した。国道6号線は早朝渋滞し、また事故も頻発しており、納車の運転をするときには相当な緊張とストレスを強いられたことも心疾患発症の要因となった。
(5)既往症との関係
被災者は亡くなる1年余り前、心臓大動脈弁の手術を受けている。手術は将来、動脈が破れることを防ぐための予防的な性格のものだった。手術は成功し術後の経過も順調だった。高血圧はあったものの医師の指示により降圧剤を服薬しており、心停止を招くほど急激に不整脈が突発した原因は業務の過重負荷以外に考えられない。
防護服・全面マスク姿の猪狩忠昭さん |
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