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3月, 2021の投稿を表示しています

3.30 判決に向けて

  いよいよ3・30に判決を迎えます。  安全配慮義務違反の認定を勝ち取り、勝利判決へ!!  時系列が前後しますが、裁判の振り返りも兼ねて3月1日の報告集会の様子をアップします。  3月1日、いわき地裁での被告・原告の証人尋問を終えたあとは労働福祉会館に移動して報告集会を持ちました。 参加者の誰もが、被告のデタラメを圧倒した遺族の証言に胸を打たれ、熱気に包まれた報告集会でした。 霜越弁護士は、今日までの経過を報告。「被告のこれまでの反論は、『そもそも病名が違う』『本人の不摂生もあったので減額してくれ』というものです。未払い裁判で否定されたのにまだ『残業はない。移動時間は労働時間でない。』とも主張している。しかし『(イチエフでの作業のない日は) 8 時前に作業をさせていない』と言うが、前社長が出社するのは 8 時過ぎだと証言した。」「入院した時の給料もマイナスになっている。忠昭さんが経済的な理由からイチエフを希望した、と言うがじゃあ有給を勧めたのかという問いには答えが二転三転している。裁判官も『とてもこの証言は信用できない』と思っているでしょう。」と発言してくれました。 齊藤弁護士からは「いわきオールの落ち度によって忠昭さんが命を落とした。いわきオールは『それは限定的だ』『責任がない』と印象付けるために証言をおこなった。しかし、反対尋問での霜越弁護士の弾劾によって功を奏さなかった。」「東電が速やかに AED を使えていないことや電話連絡など、救命体制があまりに脆弱であったことも証言から明らかにできた。」と証言の意義にふれ、また「大変緊張するなか原告の 3 名は自分の役割を果たして被告の責任を明らかにされました。大きな拍手を送りたいと思います」。と遺族を激励されました。 原告である遺族からも一言ずつ感想をもらいました。 「今日の前社長の証言を聞いていて、夫はこんな人の下で働いていたのかと思うと可哀想でしょうがなかった。あんな経営者の下で、第一原発で働かされている方が居てはならない。証言をしているあいだはずっと背後からみなさんの声援が聞こえて来ました」。 「 3 年と 4 ヶ月、今日まで長いあいだありがとうございました。判決はもちろん気になりますが、いわきオールのような経営者がひとりでも減ること、あんな経営者のもとで働く労働者がひとりでも減ることを願っています」。 「私た

3・30 いよいよ判決

   3月30日、いよいよ判決を迎えます。  判決の直前ですが、3月13日にいわき駅前で配布したビラをアップします。  3月13日はあいにくの土砂降り。 「あれから 10 年原発事故は終わっていない 3 ・ 13 アクション」のスタンディングが午後から行われる予定でしたが、豪雨のため屋内集会のみに変更になりました。 11 時 30 分からのビラまきには全港湾小名浜支部の仲間や、東京から「オリンピック災害おことわり連絡会」の方々も駆けつけて下さり、遺族とともに豪雨の中ビラまきをやり抜きました。(ビラまきの呼びかけは全国一般労働組合全国協議会といわき自由労働組合) 雨のため人通りはまばらでしたが、ビラの受け取りは上々。いわき駅に着いたばかりの全国一般全国協の平賀委員長や平和フォーラムの藤本共同代表らも合流してくれました。 午後の屋内集会にも遺族とともに参加。集会では全国一般全国協の平賀委員長から遺族を紹介していただきアピールをさせてもらいました。

ご長女の陳述書

 ご長女の陳述書です。  彼女は証人尋問の最後に「人の命と向き合い、助ける看護師として働いています。血の繋がりのない患者さんの死でも、とてもつらくて悲しいです。父の死は人生の中で一番つらい出来事です。もっと命の尊さを実感してほしい」と涙ながらに語られました。  その瞬間、傍聴席の何人もが目頭を押さえていました。 以下、証人尋問に先立って、ご長女が書かれた陳述書です。   陳 述 書   2020年11月20日                            猪狩●●● ① 父が亡くなって約 3 年経ちましたが、私は今でも父が亡くなったあの日、息を引き取った父と面会し顔を見た時の眉間に皺を寄せた苦しそうな表情、青ざめた顔を見た時のことを思い出すと胸が苦しくて、張り裂けそうな思いでいっぱいになります。なぜ父が亡くならなければならなかったのですか。 この 3 年間父を思いださなかった日は一度もありません。家族といても、友達といても、仕事していても何気ない日常生活の日々に父を思い出し、父ならこういう時こんな風に話すだろうな、ここのご飯屋さん一緒に来たかったな、好きだったろうなとか、ここの服屋さんでよく服買っていたなとか些細なことですがこれからの私の人生に父がいないことがいまでも信じられません。  夢であった看護師になった姿を見て欲しかった。口下手な父でしたがずっと楽しみにしてくれていたと思います。看護師になったら、父と行きたかった場所や、したかったこと、たくさんありました。そしてたくさん親孝行してここまで育ててくれたことへの恩返しをしていこうと決めていたのに、まだ何もできていません。もっと話しておけばよかった、離れていても毎日電話してあげればよかった、もっと一緒にお出かけして思い出つくればよかったなど悔やんでも悔やんでも悔やみきれないです。この悔しさ、悲しみは私の中で一生消えません。  ② 私は、父が亡くなった後サマータイムという制度があったことを知りました。 サマータイムは、防護服を着て汗まみれになって働いた作業者たちを早く帰宅させて体を癒やさせるための 1F の制度でした。父の場合 13 時 過ぎには 1F を退場していました。しかし、家に直帰することは許されず、会社に戻って残業していたことを知りました。私は高校 3 年間父と毎日暮らし

ご長男の陳述書

 続いてご長男の陳述書です。   陳 述 書   2020年11月20日       猪狩●●     ① 父が亡くなり早 3 年が経ちました。 亡くなった年の父との貴重な時間は今も鮮明に覚えています。 2017年の5月の連休でした。父は東京にいる私のアパートにせっかく会いに来てくれたと言うのに、仕事について聞いても父は何も応えず、いつも通り口数も少なく、少しお酒を飲んだ後は、深く眠りについていた事が印象的です。 お通夜には、会場に入りきれないほどの、父の友人、以前の職場の仲間が来てくれました。父の車関係の友人から「息子が車に興味がないんだ、って寂しそうに言ってたぞ」と初めて聞きました。 学生時代の父の友人達は、告別式までの 4 日間、毎日自宅の父の亡骸に逢いに来てくれました。皆声を上げて泣いていました。そして父の友人達が僕に「しっかりな!」と大きなその手で背中をポンと叩いてくれた事を忘れません。沢山の仲間たち、親族に愛され、見送られる父を見て、生きてさえいれば教わる事がまだきっと沢山あったのだろうと悔やみました。 ② 父が大動脈弁温存基部置換術を受け、その後仕事に復帰した時には、土曜日に関して労働時間短縮を求めた父の意見は通らず通常通りの労働を行ったと聞きました。 手術をしたところが心臓の部分と知っていたなら、なぜ、身に合わせた対応や一労働者の意見を聞いて頂けなかったのでしょうか? 生前父が私たち家族に仕事がきつくなったというような弱音を吐く所は聞いた事がありませんでした。もちろん子供の前だから当然とも思います。ですが、長年働いていれば、多少なりとも父の人柄は会社の方にも伝わっていたのではないかと思います。 その父の言葉を聞いてもらえなかった事、とても残念で仕方ありません。   ③ 父は宇徳の整備工場で長い間働いていました。 宇徳は現場の労働者の健康維持や、危険回避の責任があった中、宇徳が整備工場以外で長時間労働を行なっていた事を全く知らなかったと言うのも不自然だと思いました。 宇徳事務所でのお昼休憩時の会話を含め、何かしら情報はあったはず、下請けの責任で自分たちには関係ないと言って、聞かなかった事にしていたのではないかと思います。   ④ 私は2017年1 2 月4日、母

お連れいによる陳述書

  証人尋問に先立って提出した陳述書です。  証人尋問の報告と合わせてお読みください。まずはお連れあいが書かれた陳述書です。 陳 述 書   2020 年 11 月 20 日      猪狩●●●   1         夫の性格 家族との生前のエピソード   生前の夫を一番思い出すのは、いつも美味しそうに食事をしていたところでしょうか。料理が得意で、鍋は出汁取りから、ビビンバや、私のリクエストのフレンチトーストも絶品でした。ゴーヤチャンプルも良く作ってくれました。私も子供達も、そんな夫の口に合う料理を作る為に料理の腕を上げました。 夫は優しい人で、人様の悪口、陰口を決して言わない人でした。仕事の悩みや愚痴もほとんど聞いた事がありません。そんな性格のせいか、会社では後輩の方々に慕われており、お通夜には、 9 年前に退職した、以前の職場の方々が沢山足を運んで下さいました。驚いたのは、最後のお別れにと、わざわざ火葬場にまで足を運んで下さる方々がいらした事でした。前の職場でも、皆んなが嫌がる仕事を率先してやってくれていた、いつも皆んなの真ん中にいたと聞きました。 夫は私の両親や兄弟にも自分の家族の様に接してくれていました。私の父親が亡くなる時も、仕事ですぐに病院に行けなかった私の代わりに、夫が最期の時まで父の側にいてくれました。生前、父は定年後の友人夫婦との旅行に夫を連れて行った事がありました。いつも夫を息子息子と紹介し、頼りにもしていました。  私が仕事でいわきに帰れない母の日に、夫が私の母に果物の籠盛りを届けてくれた事もありました。 「 11 月の連休また来るよ」と言って、 2017 年 10 月 9 日にいわきに帰った夫に、次に会ったのは 26 日の 18 時過ぎで、夫は高野病院の小さな部屋で、ストレッチャーに乗せられた、白いシーツにただ包まれた、まだかすかに温もりが残っていた動かない遺体になっていました。倒れたとの連絡からたった 1 時間後に死亡が確認されたと電話があった時、急いで帰宅中の車の中で、一瞬車窓からの景色が真っ白になった事を今でも忘れません。とにかく夫の元へ急がなければと、泣きじゃくる娘と愛犬を乗せ、 2 時間半、一言も話さず、常磐道を病院へ向かったのは昨日の事のように鮮明に覚えています。 それでもまだ、

3月1日 証人尋問の報告

 去る3月1日、損害賠償請求裁判の証人尋問が行われました。    原告側は遺族(猪狩忠昭さんのお連れ合い、ご長男、ご長女)の3名が証言台に立ち、被告側はいわきオール前社長が証言に立ちました。被告・東京電力は直前になって証人申請を取り下げました。(当初は、救急救命室の職員の証言を予定していました。)   被告が特別傍聴を確保(東電5名、宇徳2名、いわきオール2名)し、さらに裁判所が記者席を8席も認めたために一般傍聴が4席と限られてしまいました。しかし当日朝になって被告が特別傍聴の人数を減らしたため(証人を取り下げたのだから当たり前です)、一般傍聴は7席となり抽選の結果6名の仲間が傍聴することができました。   証人尋問が終わったあとに裁判長は結審を言い渡し、判決は3月30日の14:00からとなりました。多くの方の注目を呼びかけます。   以下は証人尋問の報告です。    証人尋問は被告・いわきオール前社長(忠昭さん死亡当時は社長)から始まりました。 いわきオール前社長は早朝の宇徳への納品について「知らなかった」「指示していない」と答え、「猪狩さんが亡くなったあとに知った。『そんなことをやっていたから猪狩くんが亡くなったんだ』と宇徳に言った」と最初から責任を宇徳に擦り付けるやり方でした。さすがに宇徳の弁護人もびっくりしたようで、あとで尋問を行います。そうすれば「妻が…」と、また責任を別人に擦り付けます。責任を押し付けられた彼女も、取締役であり被告なので責任を押し付けても意味はないのですが。よほどびっくりしたのでしょう、 宇徳の弁護士が尋問を行ったのは彼に対してだけでした(原告への反対尋問も行わなかった)。    その後も、ことあるごとに「(血圧の)薬をちゃんと飲むように言ったのに飲んでいなかった。何度も注意した。」「(過去に猪狩さんが手術を受ける際)セカンドオピニオンを勧めたが聞いてもらえなかった。」「(手術を終えて職場復帰する際)『軽作業からスタートしたら』と言ったが本人が強くイチエフでの作業を希望した」とあたかも健康にずっと気を使ってたというアピール。  さらに未払い賃金裁判で未払い残業代を支払うよう判決が下り、控訴を断念したにも関わらず、「タイムカードと作業日報を毎日確認していた。」「残業代について恣意的な計算はしていない」と未だに残業代はきちんと払っていた